本稿は恩師である芝田光男氏が私に託された「郵船時代のこと」という題名の自叙伝の一部です。どんな時も正義を重んじ、自分を信じて人生を全うされた芝田さんの足跡です。参考にして頂ければ幸いです。
2. 郵船での仕事 「長門丸」
郵船での私の仕事は、外国港での入出港の手続きや船員の給与関係の事務を担当する、会計丁と呼ばれるアシスタントパーサーであった。入社2ヵ月後、これといった研修もなく、私は「長門丸」に乗船することになった。。
私の乗る長門丸は、1957年、相生の播磨造船所(後の石川島播磨造船)にて建造された約1万2千トン、速力16ノット、乗員50人の南米定期航路の貨客船で、処女航海を終えたばかりの船齢1年の船であった。
乗船待機中、私はY校(横浜市立横浜商業高等学校)での第2外国語の選択が西語だったことから、南米航路の長門丸乗船なのだろうと合点し、少しでも役に立とうと、早速、有隣堂で会話のテキストを買い求め、乗船準備を始めていたが、意外にも本社の指令は、中近東への不定期配船であり、Destination はペルシャ湾のBasraであった。
長門丸は、1958年6月初め、いまだ戦雲の漂う台湾海峡に向けて神戸を出航した。Basraまでの主要な寄港地は、香港、星港、Karachi、Kuwait等であり、Hormuz海峡を通過してペルシャ湾に入ると、酷暑手当の出る凡そ4ヶ月の航海である。以下、航海中の出来事や各地での思い出を綴っていく。
(次回につづく)
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