本稿は恩師である芝田光男氏が私に託された「郵船時代のこと」「浪人・早稲田大学時代」という題名の自叙伝の一部です。どんな時も正義を重んじ、自分を信じて人生を全うされた芝田さんの足跡です。参考にして頂ければ幸いです。

15. 三菱商事入社 最終回

 1964年の就職のため、早い学生は、1963年の夏休み中からせっせと会社回りを始めたようだが、私は、どうせ各社の募集要項が確定するのは、秋も深まる頃だろうと、先ずは僅か1年で辞めてしまった、愛着を感じている日本郵船の募集状況を当時の入社同期の石田君(女優石田ひかりの親父)に調べて貰うと、続く海運不況で新入社員を当分募集はしないという。

幾分、気持が楽になった私は、今度こそ自分の適性を十分に見定めるべく行動を開始した。そして、田浦中時代の先輩が、朝日新聞の事件記者だと知り、早速勤務先の上野下谷警察署を訪れてみたが、特種記事の殆どが偶然の産物だと聞いてジャーナリズムを諦めたり、当時新聞紙上を賑わしていた“政商” 木下産商の品のない応対に受験を敬遠したり、また横浜商業高等学校の大先輩で(にっ)金工(きんこう)の宮代社長をアポなしで(社長縁故にするから入社しなさいと言われたが)訪問するなど、私の将来を託せる会社はないものかと懸命に会社回りを重ねた。結論は、自分には、やはり海外関係の仕事が向いていると考え商事会社をターゲットにすることにした。

それもJob Scaleの大きい会社でなければ、大きな仕事が出来ないと、狙いを「三菱商事」一本に絞ることにしたが、第一関門は学内選考であった。大学が募集する人員は10名で、各学部からの応募者は50人余りいるという。選考の基準は成績だが、私はなんとか10名の中に滑り込むことができ、丸の内の二次試験に進むことが出来た。

筆記試験は、簡単な常識問題で、どちらかと言えば、面接に重点を置いているようであった。

部長級の試験官の「父親をどう思っていますか?」の問いに、私は「復員後の父親の永年皆勤勤続に誇りを感じています。」と答えた。また「郵船には行かないのかね?」の問いには、「来年の募集は無いようですが、社風は素晴らしく愛着があります。」と答えた。試験管は、組織の三菱の人らしく微笑みながら頷いていた。その頷きに郵船の時とは、大違いの手応え感じながら帰路についたら、家では既に合格電報が待っていた。

三菱商事への入社の決まっている4年次、私は卒業に必要な単位以外の講義の受講を排除したので、残るは必修の体育や選択科目の簿記など数科目だった。その結果、私の生活は、講義の時間割を忘れるほど緊張感に欠けるものとなってしまった。

三菱商事入社後は、こんな暇な時は多分二度と無いだろうと、私は残された時間に、無味乾燥の経済学書から離れて、瑞々(みずみず)しい文学に触れようと、病気加療中の一戸先生(中学時代の老師)から「若きウエルテルの悩み」(ゲーテ)、「死せる魂・どん底」(ゴーゴリー)、「レ・ミゼラプル」(ユーゴ)、「戦争と平和」(トルストイ)、「大地」(バールパック)、「誰がために鐘は鳴る」(ヘミングウエイ)、「風と共に去りぬ」(ミッチェル)や夏目漱石の「こころ」、「明暗」、「道草」、島崎藤村の「夜明け前」、「破壊」、幸田露伴の「五重塔」、「運命」、森鴎外の「阿部一族」、「渋江抽(しぶえちゅう)(さい)高瀬舟そして「十八史略」「史記」(明治書院の新釈漢文体系)、「平家物語」(小学館の日本の古典)、「奥の細道」(松尾芭蕉)、「方丈記」(鴨長明)などを借り受け貪るように読んだ。

だが、2年次に折角入手した「存在と無」(サルトル)、「不確実性の探究」(プラグマティズムの提唱者ジョン・デュイ)の哲学書は書棚に置いたままになってしまった。やはり、私には形而上学には向かないことを思い知らされることになったが、三菱商事入社後、このような時間を持ったことは、私の大きな拠りどころとなった。

何の準備もなく無手勝流で挑んだ受験といい、学費の当てもなく学生生活に飛び込んだ無謀さといい、どうやら私は、底抜けの楽天家であるようだ。

この5年間の私の座右の銘は、父と同じく「努力々々」であったが、私以外にも努力した人は大勢いるのだから、自分の力だけで認められるほど世間は甘くはない。振り返って見ると、私の周辺には、常に私を温かく見守ってくれた諸先輩や教授そして学友が大勢いた。従って無事に卒業までこぎつけたのは、その方々のお陰と感謝にたえない。

 

― 終わり ー

 

いかがでしたか? 

これで、「長門丸 周航記」は終了です。

芝田光男さんが横浜商業高等学校を卒業され日本郵船に入社、1年間の本船乗組員を経験された後、早稲田大学に4年間通われ、そして三菱商事に入社されるまでの自叙伝を「長門丸 周航記」として纏め、羨ましい6年間の波乱万丈の人生をご紹介させて頂きました。

芝田光男さんは、三菱商事をご退職された後、監査役としてイースタン・カーライナーに入らっしゃいました。当時、私は監査室の一員で、芝田さんから本では学べない多くのことを教えて頂きました。眼光の鋭さ、頭脳の明晰さに加え、社会の不合理さを乗り越えた寛容さ、今でも懐かしく思い出します。