プロローグ2

 

「学校の桜も見事ね」

川沿いにある公平と琴乃の通った中学の校庭を見て和美は言った。そして当時の思い出を話し始めた。

「そう言えば公平が中学三年の夏に、担任の先生から呼び出されて、あんたが高校には進学しないという調査表を提出してきたけど、お母さんは知っていますかって言われてびっくりしたことがあったわね」

「そんなこと、あったけな」公平はしらばくれた。

「あった、あった。私が家に帰ったら仕事に行っているはずの母さんがいて、私嬉しくて母さんに抱きつきたかったけど、母さんすごく怒った顔していて、近寄れなかった。そしたらお兄ちゃんが帰ってきて、母さん、何も言わないでお兄ちゃんを引っ叩いたのよね」

「忘れたよ。ちゃんと高校行ったからいいじゃないか」

公平は勘弁してくれといった表情で首をすくめた。

「あの時、あんたを叩いた手の痛みは母さん、今でも忘れない」

「引っ叩かれた俺の方が痛かったつーの」

「やっぱり覚えてるんじゃないの、お兄ちゃん」琴乃が責めた。

「でもあの時、先生がね、公平がクラスにいると授業が締まるって言ってくれたの。あんた授業中に騒いでいるクラスの友達に怒鳴ったことがあるんだってね。『お前ら静かにしてくんねーか。俺には学校の授業しか時間がねーんだよ。悪りーけど授業聞かせてくれや』って。そうしたら、クラスのみんなが悪かったって謝ったんだってね。先生がこんな生徒は初めてですって褒めてくれたのよ。あんたは毎日、晩ご飯の支度をして琴乃に食べさせてくれて、夜は母さんの内職を手伝って、ほとんど勉強する時間なんかなかったからなんだよね。母さん、先生の言葉に嬉しいやら悲しいやらで。でもあんたが勝手に高校に行かないって先生に言ったことには腹が立ったの」寂しげに笑って続けた。

「でも、本当は母さん、自分に腹を立てたのかもね。ごめんね」

「勘弁してよ、それで俺を引っ叩いたわけ」とふざけて()ねてみせた。

「もういいよ、母さん。あの時は本当に働くことを考えたんだ。勉強なんてどこにいてもできるって思っていたしさ。でも高校に行かせてくれてありがとう。お陰で奨学金もらえて大学にも行けた。就職もできてこれからは恩返しするからさ、まだまだ元気でいてくれないと。母さんには感謝しています」

公平はそう言うと小さく頭を下げた。

 

公平は卒業後、大手銀行に就職し、企業戦略部で産業別にクライアントのオーダーによる市場動向を分析する仕事に就いていた。昨年の春には同期入社の筆頭で主任に昇格し、現在では数社の企業を担当するまでになっている。職場は大手町の本店内にあったが、担当する企業の訪問と関連調査のために外出することが多い。公平は母を早く楽にしてやりたいとの思いで勉強に勤しんだ。明るく優しい性格は社会に出ても周囲の人を魅了した。入社後も仕事に手を抜くことを知らない公平は上司からも同僚からもその有能さを認められる存在となった。その甲斐があり、長年苦労させた母を仕事から解放させられると喜んだ。当初、和美はまだ働くと言って聞かなかったが、公平の強い説得によりありがたく従うことにした。公平は社会人になって初めて、ただいまと言って帰宅する生活を得られた。それは琴乃もまた同じであった。

 

琴乃がすすり泣きを始めた。

「私は母さんとお兄ちゃんに甘えてばっかりで何もできてないよね」

「何言っているんだよ、お前は母さんの心の支えになっているよ。俺もお前のバカ笑いで和ませてもらっているぞ」

「バカとは何よ! 私だって一生懸命にいろいろ考えているんだからー」と大泣きになった。

「琴乃、ありがとう。本当に助かっているよ。毎日病院に来てくれて、母さんの世話をして、大変だよね。彼氏とデートもできないよね」和美は優しく笑った。

「エーっ? お前、彼氏いるのか?」公平は驚いてみせた。

「失礼ね、私だって彼氏の一人や二人……」

口ごもる琴乃に「一人いりゃいいだろう。さてはいないな」と公平が弄った。

「その気になれば何人も言い寄ってくるのよ。今は二十人の可愛い彼氏たちのお世話で忙しいのよ。私は」

琴乃は短大を出て保育士の資格を取り、地元の保育園に勤めている。

「母さんの言う通りだ。お前は本当に正直だな。お前にはまだ園児がお似合いだよ」

「何よ!」

琴乃はちょっと()ねたふりを見せたが、三人は楽しそうに笑った。和美はそんな二人を見ながら真っ当に育ったことを天に感謝した。

「お嫁さんと言えば、公平、美紗子さんから連絡はあるの? 元気なのかしら。辛いことになっていないかしらね」

和美はブリュッセルにいる美紗子を案じた。

 

和美は美紗子と気が合った。一年前、公平から将来の伴侶として紹介されてから、和美は美紗子を我が子のように可愛がった。幼い頃に交通事故で両親を亡くし、母方の祖父母に育てられた美紗子も、和美を本当の母のように慕った。美紗子は和美に母親を感じていた。そしてなんでも相談する。公平と喧嘩になると、まず和美に言いつける。だから、いつも公平は女三人を敵に回す結果になった。和美と美紗子はよく一緒に出かけた。本当の親子のように。和美は美紗子に、公平と琴乃を頼むわねと言うのが口癖だった。

「元気にしているよ。でも、忙しそうだよ。完成したら母さんに最初に食べさせるってさ」

「そうなの、美紗子さんの作ったお菓子、食べたいね」

和美はそれを思い浮かべ、嬉しそうな顔で空を見上げた。

「だからさ、病気治してさ、あいつが帰ってくるのを待とうよ」

「そうよ、母さん。病気している暇なんかないわよ」琴乃が和美の肩に手を添えて言った。

「そうね。頑張らないとね」