「よく分からんけど、最近食欲がなくて、ときどき吐き気がするらしい。数日前から胃がむかむかするから昨日病院に行ったらしいんだけど、医者から一度検査しておきましょうって言われたんだって。まあ、休養だと思って一日休めばいいよ。心配ないって」

「何か心配。今晩、お家に行ってもいい?」

「ああ、いいよ。きっとお袋も喜ぶよ。琴乃もいるだろうから久しぶりに四人で晩メシ食おう」

「うん。じゃあ何か買い物して行こ。今晩は私が作るから。おかあさんみたいにうまくはできないけど。でもこれからは、おかあさんに習って野々村の味を覚えなきゃ」

「おー、いいねぇ、頼むわ」

 

「美味しい! お姉さん、この煮物、本当に美味しいわ。今度教えてね」琴乃が絶賛した。

「何言っているの。琴乃ちゃんにはおかあさんという先生がいるじゃない」

「それはそれ、お姉さんは、また別よ」琴乃は姉ができることが嬉しかった。

「お前は本当になんでも大袈裟な奴だな」

公平も確かにうまいと思いながら、わざと平然を装った。

「お兄ちゃんは何を食べても一緒なのよね。かわいそうね、味音痴って」

それを聞いて美紗子も嬉しそうに微笑んだ。

「おかあさん、来週の検査入院って本当に大丈夫なの?」美紗子が心配して聞いた。

「大丈夫よ。ちょっとむかむかが続いていたんだけど、こんな美味しいものをいただいたらそれも治ったわ」

和美はこれからこうやって四人で食事ができるのかと思うと過去の苦労さえ、いい思い出に思えた。

「美紗子さあ、自分の企画が認められて来年一年間、ベルギーに行くことになったんだよ」公平が説明した。

「そうなの。よかったね。美紗子さんの作るお菓子は美味しいものね。頑張ってね。でもちょっと寂しくなるわね」和美のにこやかな顔がわずかに曇る。

「ごめんなさい。私も、おかあさんに会えない一年は辛いな」

「あら、公平じゃなくて私に会えないのが寂しいなんて嬉しいわ」

それを聞いて琴乃が笑った。

「そりゃ、お兄ちゃんよりも母さんの方が魅力的だからね」

「うるせーぞ、お前は」冗談と分かりながら公平は怒ったふりをした。

「おかあさんの身体が本当に心配」美紗子はどこか拭いきれない不安が残っていた。

「大丈夫よ、私は。行ってらっしゃい。あなたこそ身体に気をつけるのよ。困ったことがあったらなんでも言ってくるのよ。無理しないでね。私は外国なんて行ったことがないから分からないけど、生活習慣も違うでしょうし、大変な思いをするかもしれない。そうなったらすぐに帰ってくるのよ」和美の言葉に美紗子が涙ぐんだ。

「何をセンチメンタルになっているんだよ。たった一年じゃないか」

「お兄ちゃんって味音痴だけじゃなくて、感情も音痴なのね! まったく人の気持ちが分からないんだから」

琴乃は公平の鈍感さを責めた。しかし、一番落ち込んでいるのは公平自身だった。美紗子が傍にいることが当たり前であるがゆえに、実際にいなくなることでどんな気持ちになるのか、公平はまだ想像ができなかった。

「お式はその次の春がいいわね。桜の季節に間に合うといいのだけれど。ドレスも着物も合わせに行かなきゃね。美紗子さんが帰ってくるまでに私が、どんなのいいか見ておくわね。それから、お祖母様にもご挨拶に行かないとね」

和美はまるで本当に娘を嫁がせるかのように思いを巡らせていた。この時はまだ誰もが楽しい将来を思い描いていた。

その晩、四人の笑い声は遅くまで絶えなかった。

 

美紗子の企画が予定よりも早くスタートすることが決まり、年が明ける前に美紗子はブリュッセルに向けて出発することになった。和美は美紗子を見送るために入院を後にずらした。検査の結果、手術が必要と診断されたのだ。胃癌だった。

 

空港には公平が和美と琴乃を連れてきただけで美紗子の身内は来ていない。美紗子の祖父は美紗子が中学三年の時に亡くなり、祖母神原正代は数ヶ月前から熱海の養護施設で暮らしている。足腰が弱まった姉を心配した正代の弟が海の見える完全介護の施設に入れたのだった。正代の経済的な支援はその弟が面倒を見ているが、美紗子にその人の記憶はない。幼い時以降、会う機会がなかったのだ。大学入学で上京してから美紗子は一人で生きてきた。それまで正代は厳しく美紗子を育ててきた。母親がいないことで不利益を負わないように女子として必要な教育をした。その(しつけ)のお陰で美紗子は料理も針仕事も人並み以上に()()かった。正代とは電話でお互いの様子を連絡していた美紗子だったが、高校を卒業してからは一度も秩父に帰っていない。

美紗子はベルギーへの出発を控え、正代が住む施設を初めて訪れた。高台にあるその施設はまるでホテルのような広いロビーを持ち、清潔感漂う立派なものだった。美紗子は想像と違ったその立派さに驚きと、そして安心を感じた。正代は介護士に車椅子を押してもらい、海の見えるロビーで美紗子を迎えた。

「おばあちゃん、久しぶり。身体、大丈夫?」

「美紗子、元気そうだね」

「ええ、元気よ。おばあちゃんに言われた通り自立して頑張っているわ。それにしてもきれいなところね、ここ。ここなら長生きできるわね」

「私は秩父の家の方がいいんだけどね。落ち着かないよ、ここは」

「贅沢な話よ、こんなきれいなところに住めるなんて。ここなら安心ね」

美紗子は祖母の暮らしがどんなものなのか想像ができなかったが、施設の様子を知り安堵した。

「突然来て、何かあったのかい?」

「うん、あのね、おばあちゃん、私仕事でベルギーに行ってきます」

「それって、どこだい?」

「ヨーロッパ。チョコレートのお菓子の商品開発をするの」

「ヨーロッパ? ドイツとイタリアは同盟国だけど他の国は大丈夫かね。」

「いつの時代の話をしているのよ、おばあちゃんは。今はどこに行っても大丈夫なのよ」

「そうなのかい。ならいいけど、私のことは心配ないから、行っておいで。人に迷惑をかけず、日本人として礼節をもって人に接するんだよ。そうすれば人は助けてくれるから。もう二度とあんな悲惨な戦争をしてはだめ。お前たちは誰とでも仲良くしなさい」

「はい。分かりました。おばあちゃんも身体に気をつけてね」

美紗子は久しぶりに会った祖母に今の暮らしぶりを話したが、公平のことについては報告する機を逸した。気持ちのどこかで厳格な祖母に何を言われるか分からないことを避けたのかもしれない。

「じゃあ、おばあちゃん、行ってきますね。帰国したらまた来ます」

「美紗子、何事も自分の決めたことに信念を持ちなさい」

「はい」美紗子は正面を向いて元気に応えた。

 

― 成田空港 ―

「身体に気をつけるのよ。忘れ物ない? しっかりね。お仕事、大変でしょうけど辛い時は笑いなさい。そうすれば頑張れるわ。私がそうだったから。お金足りているの?」

和美は矢継ぎ早に話した。

「おかあさん、ありがとう。大丈夫よ。しっかり頑張ってきます。おかあさんも身体に気をつけてね。公ちゃん、琴乃ちゃん、おかあさんをお願いね」

「おう、分かってるよ。美紗子も気をつけろよ」

「美紗子姉さん、いよいよ出発ね。母さんと一緒に美味しいお菓子、待っているね」

「了解、頑張って作ってくる」

美紗子は右手を額に当て敬礼の真似をした。

チャイム音が鳴った。『ルフトハンザ航空4923便、ミュンヘン行きはご搭乗の最終案内をしております。……』

搭乗時間を告げるアナウンスが流れた。和美は両手で美紗子の手をとった。

「美紗子さん」

「はい」

「待っているからね」和美は必死で泣くのを耐えた。

「はい。おかあさん。行ってきます」

美紗子は優しく包むように和美を抱きしめた。和美も美紗子の背中に手をまわした。そして美紗子の耳元で囁いた。「私はあなたが娘になってくれて幸せよ」

「ありがとうございます。おかあさん。私もおかあさんの娘になれて幸せよ」

和美は美紗子が見えなくなるまで大きく手を振り見送った。美紗子も最後に振り返り、泣きながら笑顔で手を振った。

 

そして和美は入院した。

 

年末、和美は手術を受けたが既に転移しており、手の施しようがなかった。公平は母に手術は成功したと言ったが、和美は自分の身体の状態はよく分かっていた。しかし、和美もまたそれを口にすることはなかった。

桜の咲いたこの日、外泊が許され一時帰宅した和美は、癌であることが(うそ)のように元気に見えた。公平も琴乃もこのまま治ってしまうのではないかと心の中で淡い期待を持ったが、すぐに現実に戻ることになる。四月半ば、和美の容態は急変した。最後の桜の花が散るのを待っていたかのように和美は静かに息を引き取った。

「母さんはいつもお前たちの傍にいるからね……」

 

そして、今日、美紗子が帰ってくる。