本稿は恩師である芝田光男氏が私に託された「郵船時代のこと」という題名の自叙伝の一部です。どんな時も正義を重んじ、自分を信じて人生を全うされた芝田さんの足跡です。参考にして頂ければ幸いです。

12. マルクス資本論とサミュエルソン経済学

私は入学時、専門科目の選択は、「近代経済学」及び「現代金融論」と決めていた。だが入学早々、政治闘争化した様々な闘争を見せられた私は、それら闘争の思想的な背景を知りたいと、予ねてから入学祝いを贈ると言っていた義兄に「マルクスの資本論」が欲しいことを伝えた。早速送られてきた岩波書店の「資本論全3巻」は、当時の私にはおいそれと手に負える代物ではなくて、なによりも左翼独特の用語使いには閉口し、4ヶ月間もかかってしまった読書には、内容より先ずは眠気との闘いであったことを思い出す。

そして私なりに読んだマルクスの資本論は、資本主義的生産様式、余剰価値の生成過程及び資本の運動諸法則を分析したもので、それは私が期待していた「未来の共産主義世界の青写真」を書いたものではないことが分かった。

彼の言う資本主義とは、「プルジョアジーによる資本の独占と労働力を商品として売るプロレタリアの存在があって始めて成り立ち、資本(家)はプロレタリアの労働力再生産が可能な分だけの賃金を支払い、賃金不払の労働によって生み出された余剰価値分を資本(家)が搾取するシステムである。そして、そのシステムでは、プルジョアジーの資本は蓄積される一方であるに対し、プロレタリアの貧困は益々蓄積されて行く法則に縛られている。」となっている。そして、「社会に如何なる飢饉が起きようと、また社会に有害な兵器が開発されようと、資本(家)は利潤さえ出れば生産を行うものであり、利潤の出ない生産には決して資本を投入しない代物である。」要約すれば、「資本の究極の目的は、可能な限りの自己増殖であり、可能な限りの搾取である。」と言っている。さらに、「如何なる社会も必然的に生成発展し、次の社会制度へと発展的に解消される歴史性を持っていて、資本主義社会はやがて没落して行く運命にある。次に到来する社会は、『協同的生産手段で労働し、その労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体』或いは『労働者達が自分自身の計算で労働する社会』になるだろう。」と結んでいる。

だが、社会主義国の生身の官僚の作る計画経済の効率性については一切触れていない。彼の資本主義分析には、「資本」「労働」のほかのそこから生まれる製品の価値を決める「市場」についても一切触れていない。市場は社会の要望とその多寡を測る機能をもっていて、経済活動の効率化の役目を果たしている。資本と労働で成り立つ企業は、市場に於いて淘汰され社会的使命を果たしながら利潤を得るのであるが、現在のところ市場に勝る機能は存在しない。従って彼の「資本論」は、貧困に喘ぐ19世紀半ばのヨーロッパ社会の労働者階級に焦点を絞り、革命を正当化するプロパガンダに過ぎないのでは、と私は思った。

また、マルクス・エンゲルス等によって起草された、「ヨーロッパに幽霊が出る、共産主義という幽霊である」という書き出しで始まる「共産党宣言」は、「これまでの社会のすべての歴史は階級闘争の歴史である」と続き、「プルジョアジーを転覆する革命はプロレタリアートの革命的団結である」と締め括っている。だが、近代国家では既に資本の自由放任主義を制限する一方、労働者の生存する権利を法的に確立していて、社会民主主義的資本主義国家へと変身し、階級闘争は沈静化し、マルクス・エンゲルスの「資本主義は歴史的に没落する」というテーゼ(運動方針綱領)は、今やその正当性を失っている。

そして、今日の共産主義者達は、革命の完遂には労働者を前衛とした共産党一党独裁体制でなければならないとしているが、1962年、スターリン時代の収容所を描いたソルジョエニーツインの小説「イワン・デニソビッチの一日」や、その後発表された「収容列島」を読むと、ソ連の実態は、「秘密警察によって維持されてきた虚飾と欺腸に満ちた国家体制であった」とある。現代では、そのようなおぞましい社会体制を望む国民は世界に殆どいない、と私は思った。

然らば、現代のケインズを始まりとする近代経済学は如何なる「経国済民」を目指しているのか、私はマルクスと対極にある近代経済学のノーベル経済学賞受賞の サミュエルソン の『経済学』を紐解いてみた。上下巻の大著はマルクスとは違って平易な文章であることから数日で読むことが出来たが、私の注目したのは、下巻第5261節で、彼は、「産業革命以前の階級間の所得水準の変化はさしたる変化がなかったが、1770年以降は、産業の技術的、社会的変化によって階層間の賃金格差は急激に変化し社会の分裂をもたらしている。」とした上で、「近代民主主義の最も深遠な抱負の一つは、平等の促進である。それは機会の平等であり、教育の平等であり、政治的自由の平等であるが、その倫理性の問題解決は経済学ではなく政治的諸制度によるべきである。」と述べている。一部には、黒板経済学者との酷評もあるが、私は現実社会の経国済民は最大公約の確立が必要と理解した。

1年次は、必修の英語の授業毎にクラス分けされたが、我がクラスの担当は、NHKに登場するあのカイゼル髭の「五十嵐教授」で、その機知に教室内の爆笑が絶えることがなく、他クラスの学生達が羨むほどの超人気授業であった。

或る日、私は下駄履きで登校し、そのまま教室に入っていったが、下駄の音に気がついた教授は、「私の教室に田舎者は要りません。」と険しい目顔で言われた。私は、「すいません出直します」と言って、近所でズックに履き替えて戻ると、教授はニャリしながら「こりやまた歌舞伎役者に負けない早代わりですね。」と言われた。その場は教授の機知で事なきを得たが、思い出すたびにヒヤ汗の出る失態であった。

忘れられない講義としては、老齢の「中島正信教授」の経済学説史の講義を思いだす。教授は、講義の度に「諸君は小説などという小さな世界でなく、大説を書け。」と大学教授らしからぬ胴間声(どうまこえ)を張り上げていた。いつも本題から脱線するので、教授の講義は、大方の学生には冷笑の種ではあったが、私には深く心に染み入る講義が大好きであった。そんなことから私は研究室を度々訪ねたが、その度に老教授は、部屋中に鼾を響かせながら就寝していた。恐らく先生の「大説」は「大志」を抱けということだろうが、老教授は、さながら昔の人生劇場の舞台を伝える化石のような存在に私には思えた。(先日、読売新聞に早稲田名誉教授で日本棚田学界会長の中島さんの写真が載っていたが、茫洋した容姿は親父さんと生き写しで、老教授の薫陶を受けたことだろうことを思わせた。)

私は、在学中は出来る限り専門科目以外の学間に接しようと、文化人類学、西洋政治思想史、哲学入門、倫理学、労働法などの科目を選択した。だが人類学などの学問には興味を持てるのに対し、哲学、倫理学は、講師の話しが微かに解かる程度の域を出ず、私には物事の本質・存在の原理を探求する形而上学(けいじじょうがく)が根っから向かないようであった。ならば専ら、人間社会とその事蹟を探求する「歴史」「社会科学」などを学ぼうと方針を変更した。

入学納付金支払後、私は夏休みのバイトが可能となる8月までこの僅かな金で生活しなければならなかったが、幸に私は自宅通学でしかも京急から定期券の無償交付があったので、当座の入用金は教材と昼食代だけあった。それでも教材は古本屋で安価に購入し、昼食は毎日、学食の35円の蕎麦で済ませていた。蕎麦一杯では我慢出来ず、時々横浜駅西口の大森カレー(50円)の無駄をすることもあったが、あのカレーの味は何事にも変え難い思い出である。

だが、私の級友の中には、親からの仕送りが遅れて、もう3日も昼食抜きだという学生がいて、時折「武士は相見(あいみ)互い(たがい)」と大枚100円の学食(B)ランチをご馳走することもあり、自分の苦労なんてまだまだ序口なのだと、私は思い知らされていた。当時、私は次年度の授業料のため、夏休み、冬休みになるとアルバイトに精を出さなければならなかったが、在学中一人も友達が出来ないでは入学の意味がないと、私は「貿易学会」に入会した。だが始めての夏休みは、半分くらいを友達との旅行に使いたいと思っていたが、前半は中元配達のバイト、後半は前述の資本論に熱中したため、折角の夏休みはあっという間にわってしまった。だが配達先を一早く覚える私は、歩合給の運転手にとっては重宝な学生で、「次のバイトも頼むよ」と言われるまでになって、学友との交遊さえ我慢すれば、なんとか学生生活が続けられるようになっていた。

(次回につづく)