本稿は恩師である芝田光男氏が私に託された「郵船時代のこと」という題名の自叙伝の一部です。どんな時も正義を重んじ、自分を信じて人生を全うされた芝田さんの足跡です。参考にして頂ければ幸いです。
8.日本郵船 退職
さあ、次は南米航路での待望のパナマ運河越えである。太平洋側の街は Balboa といい、大西洋のカリブ海側の街を Cristobal Colon という。運河の通行には順番待ちをするが、長門丸は1日の許可待ちをすることになった。
下船して歩いた Balboa の街で気味が悪かったのは、小型だが彼方此方にオオトカゲのような面構えをしたトカゲがウロチョロしていることだった。街行く人は平然としていたが・・・。
パナマ運河は、太平洋側の海面の方が大西洋側より24㎝高いことに着目し、パナマ地峡を開削することによりできた全長約80㎞、2つの人造湖と3つの閘門(水門)によって運営される運河である。運河を通過できる船のサイズは幅32.2m、喫水12mである。幅の広い水路では客船等ともすれ違うこともできるが、狭くなっている水路では電気機関車にけん引され進んで行く。下の写真は、カリブ海のガッツン湖である。長門丸は、この湖上で船待ちをすることになったが、2nd Officer が、ここで晴天の夜に船橋から見る月は最高なんだ」と言っていたが、あいにく当夜は曇り空であった。
パナマ運河からカリブ海に出た長門丸の次の寄港地は、Colombia と Venezuela に挟まれた小さな英国領 Guyana の George Town である。このGeorge Town で長門丸は、座礁事故を起こしてしまった。船長は初めての寄港だったらしく、また夜間投錨であったため、朝になって引き潮のため座礁したことに気付くというお粗末な事故であった。私は海難届を提出するため関係官庁へ赴く船長のカバン持ちを命じられた。普段は厳めしい顔をしているが、思わぬ座礁で困惑し憔悴する独身船長を見て、私は「彼も人の子」と彼に親近感を覚えた。
本船は満潮待ちのため、約半日の猶予が出来た。私はコックさんに豚肉をもらい、釣り糸を湾内に投げ入れてみた。すると、間髪をいれず強烈な引きがあった。南米にはナマズが多いと聞いていたが、やはりそれは、灰色の巨大なナマズであった。釣り上げると、まるで赤子の様な声でギャ!ギャ!と暫く鳴き喚いていた。
災難の George Town を出ると、長門丸はカリブ海に浮かぶオランダ領 Curacao 島に向かった。Curacao は、日本では果実酒で知られる国である。街には多くの運河が張り巡らされて、各所に通船が舫われている。私は、その通船で街に行ってみたが、それは童話の舞台のように恰も木靴の音が聞こえるような可愛らしく、また美しい街並みであった。実に名残惜しい気持ちで Curacao 島を後にする。
次の寄港地は、Venezuela の首都 Caracas の海の玄関と言われる La Guairá 港である。La Guairá は切り立った崖の下の狭い港町である。荷役の合間、私は、タクシーで30㎞南東の海抜1,000 mの高地にある Caracas に向かった。タクシーは、高価な内装を施されたトンネル内を時速100㎞でグングンと駆け上がって行く。以前、何かの著書で読んだCaracas は、人口が2百万人ほどの林の多い美しい街並みが東西に伸びた気温温暖で盆地の都市のはずであったが、実際は人口の急増によって、街並みは南北の丘陵地帯にも伸び、乾燥し、道路には紙屑などのゴミが散乱するスラム街のようであった。
Caracas には独立の英雄、Simon Bolivar の銅像が至る所に立てられているが、Venezuela も他の Latin America と同じように、種々の政治勢力が乱立し、政情が不安定になって街が荒れてしまったのかもしれないと思った。
La Guairá を後にした長門丸の次の寄港地は、Brazil 東海岸のポルトガルの植民地 Bahia である。港に近い公園から見るこの旧首都の景観は実に素晴らしかった。港の要塞に据えられた青銅砲は、大航海時代の名残だろうか、大西洋に向けられていた。Salvador の夜の街を歩いているとカーニバルに出くわした。映画で見た Rio のような踊り子が乱舞する奔放なものではなく、張りぼて人形の幼稚さが気になるが、信者の行進は大真面目で敬虔そのものであった。観光化した Rio のカーニバルも恐らく昔はこのようなものであったのだろうと、思った。
Bahia の次の寄港地は、Rio De Janeiro である。当初、長門丸は Rio De Janeiro の後、Santos に寄港し、最終的に Buenos Aires に行くことになっていたが、今回は、この2つの港には積荷はなく、東京から Rio de Janeiro から引き返せ!との指示が入った。Buenos Aires 行きを楽しみにしていた私はガッカリしたが、幸いにも Rio de Janeiro での上陸許可は2日あった。早速、私達 Mate’s room の一行は、タクシーで山上に巨大なキリスト像の立つ Marro Do Corcovado に上った。
車は、海抜約150m ほどの山を旋回しながら登って行ったが、驚いたことに上空からキラキラと舞いながらブリキの破片のようなものが落ちて来た。よく見るとなんとコバルト色の蝶の大群であった。Corcovado の頂上からは、 Rio の街が一望のもとに見ることができた。眼下に広がる Copacabana の砂浜や円錐形の山 Pao De Acucar がくっきりと見えた。
翌日、私たちは美しい Copacabana の浜辺を散策した。浜通りの一本裏手には土産物屋が軒を並べていた。そこで私は、父や伯父のために Corcovado で見た蝶の額や小型の Alligator の剥製を買い求めた。商店街のすぐ隣には Pao De Acucar のロープウェイ乗り場があって、Doctor に乗ろうと誘われたが、ロープウェイがあまりに急斜面を登るのを見て私は断った。
1959年9月、長門丸は帰国のため Rio de Janeiro を後にした。航海中の或る日、Mate’s room では帰国後、長門丸は Suez 運河、Bosporus 海峡を通って、Black Sea (黒海)に面したソ連領 Odessa に向かうという話で持ちきりになった。その航路は、日本が戦後初めて拓く対共産圏航路である。私が、「その航路の航海日数はどれくらいか?」と 2nd Officer に聞いたところ、「行ったことがないのでわからないが、凡そ8ヶ月くらいだろう。」と言う。長門丸が今航海で帰国するのは、たぶん来年1960年の4月ごろであり、その後、黒海に出発するのが5月とすると、黒海航路からの帰国は1961年の1月か2月となる計算である。これでは来年の大学入試には間に合わない。私は重大な決断をしなければならなくなった。
黒海の Odessa 行きも魅力的であるが、乗船すれば受験を再来年に延ばさなければならない。このまま日本で下船退職すれば、準備期間は半年間あり、なんとか受験は可能である。来年受験するか、再来年受験するか、私は大きな岐路に立たされた。
長門丸がパナマを通過して太平洋に出た時、私は、以前から考えていた「勉学のやり直し」を実行するべく、来年の受験に挑むことを決断した。
約1年間、4航海の船乗り生活であったが、私は神戸で下船、本社に退職届を出し、半年後、悪戦苦闘の末、辛うじて大学に合格することができた。だが、浪人中、またその後の学生生活をなんとか全う出来たのは、周囲の人々から心温まる支援があったからこそと思っている。それらについては、稿を改めて触れることにしたい。
(次回につづく)
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