美紗子の帰国

 成田空港の到着ロビーは出迎えの人たちで混んでいた。皆が到着出口から出てくる人を心待ちにしていた。あちこちで「お帰り!」「お疲れ様でした」と言う声が聞こえる。公平も一年三ヶ月ぶりに帰ってくる美紗子を待った。美紗子の乗った飛行機はオーバーナイト便で成田には昼前に到着した。公平はどんな顔で美紗子を迎えればよいのか分からなかった。この一年三ヶ月はとても長く感じられた。母和美の死を美紗子はまだ知らない。

 

到着口から大きなスーツケースを二つ乗せたカートを押して出て来た美紗子を見つけた公平は手を振って呼んだ。「美紗子! こっち」

「公ちゃん!」

カートをその場に置いたままにして美紗子は走り寄って公平に抱きついた。

「バカ、止めろ。人が見てるだろ」

「ふん、一年ぶりなのに冷たいのね。ブリュッセルの空港ならこんな時、情熱的に抱き合ってキスするのに」

「ここは日本だぞ」

それでも公平は美紗子と額をつけて言った。

「お帰り」

「うん、ただいま」

「疲れただろう」

「大丈夫。機内で結構寝られたから」

 

公平の運転で東京に向かうクルマの中、美紗子は一年間の現地の様子を公平に話して聞かせた。ベルギーの文化、ブリュッセルの風景、会社の習慣、話したいことが山のようにあるらしい。そして美紗子の開発チームのチョコレート菓子が完成し、この春にベルギーと日本で同時発売が決まったことを報告するのだった。

「おめでとう。美紗子」

「うん。これがその完成品」と言うとバッグの中から小さな箱をそっと取り出した。

「そうか」きれいな柄のその小さな箱を見て公平は胸が痛んだ。

「お菓子の名前は私が命名したのよ。ベルギーでも日本でも同じ名前で発売するの」

「そうか」

「さっきから、そうかそうかって何よ」

「いや、ごめん。美紗子があんまり嬉しそうだから何て言えばいいのか考えてた……、で、その新開発商品の名前は? カタカナで舌噛みそうな名前か?」

「それはまだ内緒よ。おかあさん、喜んでくれるかな」

期待に満ちた美紗子の言葉に公平は返事ができなかった。

「……喜ぶさ。当たり前だ」そう言うのが精一杯だった。

やがてクルマは高速道路を降り、甲州街道を調布方面に向かった。抜けるような青空だった。赤信号でクルマはちょうど野川に架かる馬橋の上で止まった。

「わー、きれい!」

満開に近い野川の桜が美紗子の目に飛び込んできた。

「もうすぐ満開だな」

「そっかぁ。もう満開か。でも満開になっちゃうとすぐに散り始めちゃうのよね。それがちょっと寂しいけど、でもやっぱり日本の桜はきれい。本当にきれい」

公平は甲州街道から脇道に入り、野川沿いクルマを止めた。

「ちょっと降りるか」

公平は美紗子に母和美の話をするか悩んでいた。

「いいよ。早く帰ろうよ。おかあさんが待っているでしょ」

「いいじゃないか、ちょっと桜を見ようよ」

公平はそう言うとクルマを降りた。

「じゃ、ちょっとね」美紗子も続いて降りた。

「でもきれい。まるで綿菓子みたいね」

「美紗子が見るとなんでもお菓子になっちゃうな」

「ただいまぁ」美紗子は川に向かって挨拶をするように言った。

「あのな、お袋さぁ……」と言いかけた時だった。川面からまたあの風が吹き上げた。それは優しく二人の身体を拭き抜けた。

「わぁ、いい風。何だかお帰りって言われたみたい」美紗子は早く和美に会いたかった。

「公ちゃん、何か言った?」

「いや、なんでもない。帰ろうか」

「うん」

 

公平がクルマのトランクからからスーツケースを降ろした時、美紗子はマンションを見上げていた。

「懐かしい。一年しか経っていないのに、もう何年もいなかった気がする」

琴乃が保育園に就職したのを機に長年住んだ小さなアパートからこの賃貸マンションに引っ越した。和美はこんなきれいな部屋に住めるなんてありがたいと何度も言っていた。公平の収入も安定し、琴乃も安月給ながら母を養うことに何の問題もなかった。美紗子はよくこのマンションを訪れていた。

「ただいま、おかあさん、美紗子です。今帰りました」

玄関で美紗子は元気に言った。

「お帰りなさい、美紗子姉さん」

奥の部屋から琴乃が出て来て迎えた。

「琴乃ちゃん、久しぶり、元気だった?」

美紗子は妹の歓迎に満願の笑みだった。

「うん。相変わらず、ちびっ子たちを相手に毎日奮闘してる」

「そっかぁ。頑張ってたんだね。おかあさんは?」

美紗子は奥の部屋を窺った。

「まあ、上がれよ」

公平はスーツケースを玄関の脇に置き、奥の部屋に行くように促した。

「おかあさん?」

和美を呼ぶ美紗子の後から公平と琴乃が奥にある和室に入った。美紗子の動作が止まった。美紗子の視点が一点に注がれた。そこには優しく笑う和美の遺影が仏壇にあった。

「……何?」

大事に持っていた小さな箱が美紗子の手から落ちた。

「どうしたっていうの。おかあさんは?」声が震えた。

「どこ? ねえ! 公ちゃん、おかあさんはどこなの!」

現実を悟った美紗子は語気を高めて公平を責めるように言ったが、公平が静かに頷くのを見て言葉を切った。そして仏壇の前に泣き崩れた。

「癌だったんだ。美紗子がブリュッセルに出発する直前に分かった」

「どうして! どうして教えてくれなかったの! 検査の結果は、心配はないって言ったじゃない。私に嘘ついたのね。私が本当の家族じゃないから? 私、家族だと思っていた。私は本当の娘のつもりでいたのに。ひどい」

美紗子は泣きながら公平に食ってかかった。公平は言い訳をせず素直に美紗子の言うことを聞いた。

「そうだよ。お袋にとって美紗子は本当の娘以上だった。だから美紗子には病気のことを言うな、とお袋に言われたんだ。ごめんな」

公平はそう言うと和美が言った通りに伝えた。

 

「公平、美紗子さんには病気のことを言っちゃ駄目よ。あの子は本当に優しい子だから、私のことを知ったらベルギー行きを止めてしまうわ。あの子はそういう性格だから。大丈夫、あの子が帰ってくるのを待っているから。だから絶対に教えちゃだめ。あの子の夢を潰しちゃだめ。私はあの子が作ってくれるお菓子を楽しみにして待つことにする」

「そうね、母さん、美紗子姉さんが帰ってくるのを一緒に待ちましょう。だから、母さん、頑張って元気でいようね」

琴乃が和美を励ますように言った。

 

「お袋は、美紗子の帰りを本当に楽しみにしていた。美紗子がお菓子を持って帰ってくるからと最期まで頑張ったんだけどな。最期に美紗子の名前を呼んで、公平と琴乃をお願いねって、まるでそこに美紗子が立っているかのように話しかけた。そして、最期に笑顔で頷いたんだ。きっと、そこにいた美紗子が任せてと言ってくれたんだろう」

美紗子は声を上げて泣いた。

「待っているからって言ったじゃない、おかあさん。お菓子なんかより、私はおかあさんの傍にいたかった」

「そんなことない。きっと、母さん、喜んでいるわ。お姉さんの気持ちを」

琴乃は美紗子の肩に両手をかけて言った。

「美紗子が娘になってくれて、きっと、お袋は安心して逝くことができたんだと思う」

「私もそう思う。母さんは私のことが一番心配だったと思うの。でも美紗子姉さんが来てくれて安心できたんだと思う。だからお姉さん、もう泣かないで。お姉さんが悲しむと母さんがまた心配するわ」

琴乃の言葉で美紗子に落ち着きが戻った。しばらく仏壇を見つめた美紗子だったが深く息を吸うとゆっくりと吐いた。

「そうね。ごめんね、琴乃ちゃん」

そして、美紗子は正座をして正面から仏壇に向かって言った。

「おかあさん、分かりました。安心してください。野々村は私が守ります。娘にしてくれてありがとうございました」

美紗子は静かに手を合わせた。

琴乃が小さな箱を拾い上げて言った。

「お姉さん、これが母さんと約束したお菓子?」

「そう。それがおかあさんと約束したお菓子。最初に食べてねって約束したのに」

遺影に向かって美紗子は悔しそうに語りかけた。

「開けてもいい? お姉さんから母さんに供えてあげて」

琴乃がリボンを解き、小さな箱を開けた。

「えっ! これって」琴乃が小さく叫んだ。

「どうした?」公平が聞いた。

「お姉さん、これがこのお菓子の名前なの?」

「そうよ。和みを感じられる和の美しさ、このお菓子にはぴったりの名前」

「ありがとう、お姉さん。よかったね、母さん。こんなにきれいなお菓子になって。母さんのお菓子だよ」

琴乃は涙でかすれた声で言い、そっと手を合わせた。

その菓子には『KAZUMI』と刻まれていた。

 

美紗子の帰国を待って和美の一周忌の法要を行った。公平たちは親戚付き合いがなかったため、美紗子と三人での法要となった。三人は法要後に野川の畔を散歩した。桜の花びらが風に舞い散り、川面に浮かんだ。琴乃は一年前にここで和美と腕を組み最後の散歩をした日のことが忘れられない。あの日も満開の桜をこうして眺め、流れていく花びらに寂しさを覚えたことが。

流れに任せて浮かぶ花びらを見ながら三人は和美を思い出していた。

「母さんも見ているわよね。美紗子姉さん」

「そうね。ここに来ればおかあさんの声が聞こえてくる気がする」

「お兄ちゃん、美紗子姉さん、式はいつ頃にするの? 早く母さんを安心させてあげてね」

琴乃は早く二人に幸せな新しい家族を作ってほしかった。そのために自分が一緒だと公平がなかなか式を挙げないのではないかと気にし始めていた。

「美紗子、一度お祖母さんに会いに行こうよ」

公平はまだ一度も美紗子の祖母に会ったことがなかった。一瞬、美紗子はキョトンとした顔をしたが、中空に視点を泳がせ何か考える表情を見せた。

「そうね。ブリュッセルに渡る前に熱海の施設に行ったんだけど、少し呆けちゃっていて、ときどき話が飛んじゃうようになってた。でも、自分の決めたことは信念を持ってやりなさいって言われたの。昔の話はよく覚えているのに、最近のことはすぐ忘れちゃうのよ。ひょっとしたら私のことも、もう分からないかもしれないわ」

美紗子は帰国してからまだ祖母に会いに行っていなかった。

「琴乃の言うように式を挙げよう。だから来週、熱海に行こう。そしてお祖母さんに結婚の挨拶をしよう。美紗子のたった一人の身内なんだから」

公平は急に美紗子の祖母に会わなければならないと思った。

「そうね。行こうか」

美紗子が公平の提案に応じた時、風が吹いた。その風はとても心地よく三人を包むように吹き抜けた。一瞬三人はまったく音のない世界にいた。しばらくその風を楽しむように目を閉じた。やがてせせらぎが耳に戻ってきた。三人は顔を見合わせた。清々しい目覚めのような不思議な感覚だった。

「今、母さんの匂いがした」

琴乃が空気を抱くように両手を胸に当てた。

「うん、おかあさんが来ているんだわ」

美紗子も何かを感じていた。

「母さん……安心しろよ」

公平が川面に向かって話しかけ、一呼吸おいて公平が言った。

「大丈夫だよ。お祖母さんもきっと美紗子の顔を見れば思い出すさ。今、お袋もそうしなさいって知らせに来たじゃないか」

美紗子が頷いた。

「そうね。きっと、そうね。琴乃ちゃんも一緒に行こ」

「うーん、ごめんなさい。来週の週末はちょっと用事が入っていて」

琴乃は申し訳なさそうに断った。

「深田さんとデートか?」

公平が割り込んだ。琴乃がはにかんだ笑顔を見せると美紗子が食いついた。

「えっ? そうなんだ。どんな人?」

美紗子は嬉しそうに妹の彼に興味を持った。

「うん。素朴な人。あんまり面白くないの、冗談言えるような人じゃないし、真面目すぎるっていうか、融通が利かないというか」

琴乃は何と説明していいか迷った。

「真面目な人、いいじゃない。琴乃ちゃんを幸せにしてくれる人なんでしょ。何している人なの? サラリーマン? それとも職場の同じ保育士さん?」

美紗子は勝手に思いを巡らせた。

「カメラマン」

「カメラマン? 写真家かぁ、かっこいいじゃない。芸術家かぁ」

美紗子は意外といった表情で琴乃を見た。

「でもすごくいい写真を撮るんだよ」

公平はそう言うと、この野川で撮ったカワセミの話から藤堂の個展で琴乃が深田と出会うまでの経緯を話した。

「へぇー、私がいない間に琴乃ちゃんもそんなロマンスがあったのね。彼に会える日が楽しみだわ」

美紗子は妹に恋人ができたことを喜んだ。

「今度お姉さんにも紹介するね」

「うん。楽しみにしてる」

この時、三人はまだこの先に起こる奇跡を知る由もなかった。