再会と別れ
公平は久しぶりに千鶴の見舞いに病院を訪れた。長期の入院生活が続いていたが、千鶴の容態は芳しくなく、前回に比べるとやせ細り意識も朦朧としていた。香穂の話だと肝機能の回復は望めないとのことで、医者から言われた余命は既に過ぎているとのことだった。
「千鶴先生、分かりますか? 公平です」
公平の呼びかけにわずかに反応を示したが、公平を認識できているかは分からなかった。香穂に正代との経緯を話し、なんとか正代と佳子を千鶴の前で引き合わせたいことを話した。香穂もそれが引き金となり、また意識が戻ることに期待して理解を示した。
公平は幸樹の段取りで夕方から籐堂と都内のホテルで会うことになっていた。約束の時間よりも早く着いた籐堂は広いロビーのソファで公平を待っていた。
「籐堂先生、お待たせしてしまい大変申し訳ございません」
公平も時間前に着いたが、待たせたことを詫びた。
「やあ、野々村さん、久しぶりです」
「ずいぶんお待ちになりましたか? すいません」
「いえいえ、私がちょっと早く着きすぎたのです。お陰で一枚面白い写真が撮れました」
「ここで、ですか?」
「はい。これです」
藤堂は公平にその画像を見せた。
それは小さな女の子が握っていた赤い風船を放してしまった瞬間の写真だった。宙に浮かぶ風船と、それを目で追う少女の切ない表情を捉えたその一枚は、少女の心の様相がいくつも想像できるものだった。
「いい写真ですね。この子の残念な思いが聞こえてきそうな感じがします」
「野々村さん、写真の見方が身についていますね」
藤堂は公平の素直な感想に感心した。高い天井でもっと上がりたがっている風船がゆらゆらと揺れていた。
「野々村さん、深田から話は聞きました。驚きましたよ。過去のことも。それと嬉しいのは、野々村さんと深田が私の親戚になるということです。これも偶然なのでしょうか? 私は何か運命を感じました。人間の繋がりがこんなにも神秘的なものなのだとは思いもしませんでした。この少女のように、時に写真は人の心を写し出すことができますが、こんなにも神秘的な出来事を画像にできないのが悔しいです」
写真家らしい籐堂の話に公平は大きく頷いた。
「なるほど、藤堂先生らしいお言葉ですね。僕もこの一連の出会いは単なる偶然ではないと感じています。もちろん、何ら確証はないのですが、何か人間の解明できない力が働いているように思えてなりません」
「ぜひ、姉を田所さんの娘さんに逢わせてやりたいと思います」
藤堂はこの出会いは姉正代のためだけではなく、繋げなければならない人の絆というものを後世に示すためでもあると思っていた。その継承を大切に考えるのは芸術家としての藤堂ならではの思いであった。
「僕もそう思います。その引き合わせをどうしたらよいものかを先生にご相談したくて今日はお時間をいただきました」
公平は三人の絆を形にしたかった。
「まずは、私が秩父に行きましょう。そこで田所さんの娘さん、鈴木佳子さんにご足労いただけるようにお願いします」
「僕もお供します」
公平は菊池千鶴がもう危ない状態であることを伝えた。
翌土曜日の午前に藤堂と公平は秩父の鈴木佳子を訪ねた。そこは、かつて正代が住んでいた町から目と鼻の先ほどの距離しかないところだった。こんなにも近い場所に運命の二人が住んでいたとは、藤堂は感慨にひたった。
「初めまして。籐堂と申します」
「初めまして。鈴木佳子です。こんなところまでお越しいただきありがとうございます」
佳子は自宅で藤堂と公平を迎え入れた。
藤堂は自分の生い立ちを語り、田所邦子に姉が命を助けられたことに深い感謝を示した。
「ぜひ、お姉さまに会わせてください。お互いにあの戦争で失くしたものは大きなものです。何かのお導きでしょう。すぐにでもお会いしたいです」
「調布の鈴木さんとは、できれば今日お連れするような話をさせていただいたのですが」
公平が尋ねた。
「はい。よろしくお願いいたします」
「実は、ちぃ先生のご容態がよくないのです。医者からはもう長くないと言われているそうです」
公平は言い辛そうに最近の千鶴の様子を説明した。それを聞いた佳子は覚悟をしていたのか、落ち着いた様子でそっと目を閉じた。それは千鶴をまぶたの裏に見ているようだった。
「そうですか。ちぃ先生にもこの事実を知らせてあげたいです」
佳子が静かに言った。三人は公平の運転で東京に向けて出発した。
公平は佳子を調布の鈴木家に送り届けると、家の中から玲子と雅也、雅也の兄雅人が迎えに出てきた。
「おばあちゃん、お帰り」
雅也が言うと雅人が公平から荷物を受け取り、挨拶をした。
「野々村さん、どうもありがとうございました」
玲子が佳子の手を取りながら礼を言った。
「いえ、お疲れになったかもしれません。佳子おばあさん、では明日ちょっと早くて申し訳ありませんが、八時にお迎えに上がります」
「はい。分かりました。ありがとうございます」
― 熱海 ―
公平と美紗子は佳子を乗せて熱海に向かった。新幹線で来るという籐堂と熱海駅で待ち合わせていた。駅前の駐車場にクルマを停めると公平は改札で籐堂を出迎えた。
「籐堂先生、こちらです」
「どうもすみません。わざわざ駅まで寄っていただいて」
「とんでもございません。クルマで美紗子も待っています」
「美紗ちゃんか、幼稚園の頃に一、二度会ったことがあるだけなんですよ」
「美紗子も同じようなことを言っていました。これからは会う機会も増えますね。先生とは親戚になれるのですから」
公平は籐堂と親戚になれることが夢のようだった。
籐堂と公平の姿を見つけた美紗子がクルマから降りた。
「美紗ちゃんか? 立派な女性になったね。籐堂です」
「籐堂先生、初めまして、ではないのですよね。あまりに遠い昔のことで記憶にありません。申し訳ございません」
「そりゃ仕方がないことだ。でも、こうして再会できることが嬉しいね」
籐堂の言い方は温かく、美紗子を安心させた。
「はい。今後よろしくお願いします」
クルマは施設に続く坂道を上っていた。
「まあ、海を見るのは何十年ぶりかしら」
徐々に眼下に広がる海を見て佳子が言った。施設の玄関では上田が待っていた。
「野々村さん、こんにちは」
上田は以前と同じ笑顔で出迎えてくれた。
「上田さん、お世話になっております」
美紗子が挨拶をすると、佳子が公平の手を借りクルマから降りるのを上田は手伝おうとクルマに走り寄った。
「皆さん、ようこそおいでくださいました。こちらへどうぞ」
上田はエレベーターとは反対方向に案内した。
「上田さん、正代お祖母さんの部屋じゃないのですか?」公平が尋ねた。
「はい。今日はこの人数だとお部屋が狭いと思いましたので、来客用のラウンジを用意しました」
「そうでしたか、ありがとうございます」
「籐堂先生ですね、今年から正代さんの担当をさせていただいている上田と申します。よろしくお願いいたします」
「いつも姉がお世話になっております。ご迷惑をおかけしていませんか?」
「とんでもありません。正代さんにはこちらがお世話になっているくらいです」
上田は海の見えるラウンジに全員を通すと、正代を迎えに行った。ほどなく車椅子を押してもらい、桜模様のガウンを纏った正代が下りてきた。ラウンジに入ってきた正代の視線は佳子に向けられた。その表情は緊張のためか硬かった。
「正代お祖母さん、田所邦子さんの娘さんです」
公平が紹介すると、正代は無言で車椅子から立ち上がり、佳子の前に土下座した。
「私がこの歳まで生きてこられたのは、あなた様のお母様のお陰です。私のせいであなた様のお母様が亡くなられてしまいました。本当に申し訳ございません。終戦後、そればかりを気にして生きて参りましたが、当時幼かった私たち兄妹はあなた様のお母様を探す術もなく、長い時間が経ってしまいました。なんとお詫びをしてよいのか言葉もございません。お許しください」
正代は顔を床につけたまま上げようとしなかった。
「お顔を上げてください。誰のせいでもありません。戦争だったのです。みんな必死に生きようとしたのです。私たちも同じです。母は正代さんを助けることができて喜んでいるはずです。将来の日本のために、平和に暮らせる日が来ることのために母は喜んでいるはずです。正代さんをそんなに長い間、苦しませてしまったのですね。だとしたら私こそお詫びをしなければなりません。どうか、どうかお顔を上げてください」
佳子も泣きながら正代の手を取った。六十五年を経た運命の対面であった。二人はお互いの手を包み合うように握り、お互いの額をつけながら泣き崩れた。
「私はこの御守で生きることができました」
正代は大切そうに御守を手に取り出し、撫でるようにしてから両手で額の高さで拝んだ。
「はい。野々村さんからお話を伺いました。母は正代さんを助ける運命だったのだと思います。だから、きっと、この御守を正代さんに託したのです。今日こうして生きている人たちのために」
「ありがとうございます。六十五年間、刺さったままの胸の棘がようやく取れました」
正代は今までに見せたことがない清々しい表情になっていた。
公平も籐堂も美紗子も、そして上田までもが涙で言葉が詰まった。
「本当に不思議な繋がりです。野々村さん、本当にありがとうございました」
佳子が改めて公平に頭を下げた。
その日、施設が用意してくれた昼食をとり、正代と佳子はすっかり打ち解けていた。あの戦争から今の平和を祈ってきた二人は話題のすべてにおいて共感を持った。それはあの悲惨な状態をくぐり抜けてきた人間にしか理解できない世界であったに間違いない。
「千鶴先生に会いに行きましょう」
正代は千鶴に会わなければならないと思った。
「はい。参りましょう」
佳子も正代を千鶴に会わせなければならないと思った。
翌日、一同は調慈会病院の千鶴を見舞った。病室には千鶴の長男正則が来ていた。都議会の真最中であったが、千鶴の最期が近づいているとの連絡で駆け付けていた。
「千鶴先生、初めまして。あの日、田所邦子さんに命を助けていただいた神原正代です。本当にありがとうございました。私がこうやって生きていられるのは皆さんのお陰です」
正代は車椅子から立ち上がり千鶴の手を握った。
「ちぃ先生、佳子です。しっかりしてください。ようやく巡り合えました。母が平和のために繋いだ命の正代さんに。分かりますか先生」
「お母さん、よかったね、皆さん来てくださいましたよ」香穂が耳元で言った。
「母さん、素晴らしいね。皆さんが母さんに感謝してくださっているよ」
正則も香穂から一連の話をすべて聞いていた。
「ちぃ先生、御守が繋いでくれましたよ」
公平が声をかけた時、千鶴の目が開いた。
「ああ、母さん! 分かるか? 皆さんが来てくださったんだよ」正則は千鶴の額に手を当てた。
千鶴の目がそこにいる人たちをぐるりと確かめていた。そして何か言いたそうに唇が微かに動いた。
「お母さん、何? 嬉しいのね、そうなんでしょ?」香穂の声が震えていた。
「ちぃ先生、めだかの学校、忘れません。見てください、兄です。兄も来ていますよ」
佳子は昭夫の写真を千鶴の目線にかざした。
「ちぃ先生、ありがとうございました。僕も平和な家庭を作ります。先生にお会いできて本当に幸せです」
公平の叫ぶような呼びかけに千鶴が微笑んだ。
一筋の涙が頬を伝い、ゆっくりと枕に消えた。そして安心したように千鶴は目を閉じた。
千鶴の長い戦後が終わった。
Login to comment