本稿は恩師である芝田光男氏が私に託された「郵船時代のこと」という題名の自叙伝の一部です。どんな時も正義を重んじ、自分を信じて人生を全うされた芝田さんの足跡です。参考にして頂ければ幸いです。

 

4.Bombay(ボンベイ)

次の寄港地は、Bombayである。長門丸はMalacca(マラッカ)海峡から印度洋を横切り、Comorin(コモリン) 岬を回ってBombayへと北上して行くのだが、海峡を通過中、長門丸は鯨を轢くという珍しい事故を起こしてしまった。ドスンと言う大音響に驚いてデッキに出てみると、船側の辺りは血の海であった。国際ルールで許されているのだろうか、長門丸は何も無かったように航行し続けた。神戸出航以来2週間が経過したが、興味本位の先輩達は、新入りの私が船酔いに苦しんでいないか度々覗きに来る。だが、元気な私を見てつまらなそうに帰って行く。

印度の南端のComorin岬を北上し Bombayに到着した。岸壁には早速コブラ使いがいたりして、印度に着いたことを実感させてくれた。陸上では、日中の気温は50度近くなるという。荷役の合間、近くの運動場で他のNYK船の乗組員と野球の試合をやるというので、「えーっ!」と思ったが、空気が乾燥しているのか、捕手をやらされても少しも苦にならなかった。印度人が、我々の野球を物珍しそうに見ていた。

港にはGate of India が建っていて、その北正面は Taji(タージ) Mahal(マハル) Hotel(ホテル) である。本家の印度北部の宮殿を思わせる荘重な建物であった。

入港後の宿直明けの二等航海士(2nd Officer)などの先輩に誘われElephant(エレファント) Cave(ケーブ) という公園に行った。巨大な像が住んだという洞窟には興味が湧かなかったが、Caveの大木の下で老若の女性たちが健康そうに談笑しているのが目に入った。夫々が色とりどりの Sari(サリー) を纏い濃い樹影に映えて何ともいえぬ調和の美しさであった。この女性達は、きっと印度の上流社会の子女と母親達なのだろう、と思った。

何故ならば、その後 Bombay の街中を歩いてみたが、路地の薄汚れた建物の前に Cave の花園とは対照的な幼い女の子が、悲しい表情をして立つのを見てしまったからである。カースト制で成り立っている印度の貧しい現実がそこにある気がした。

 

 

 

(次回につづく)