本稿は恩師である芝田光男氏が私に託された「郵船時代のこと」という題名の自叙伝の一部です。どんな時も正義を重んじ、自分を信じて人生を全うされた芝田さんの足跡です。参考にして頂ければ幸いです。
7.いよいよ、南米航路
1959年4月、長門丸は、いよいよ本来の南米航路に就航することになった。神戸、名古屋、横浜、そして日本海の各港で積み荷をした長門丸は、一路、San Francisco に向かった。
私は、7歳上の長兄に過去1年分の旺文社の「蛍雪時代」を取り寄せて、Los Angeles 港の本船に送ってくれるように頼んだ。兄は、「この弟はまた何を考えているのか?」と怪訝な顔をしていた。
長門丸の速度は16ノットであるので、太平洋を横断し最初の寄港地までには約1週間の日数を要する。航海は天候に恵まれ、誠にのんびりしたもので、何日も無風の状態が続くこともあったが、アメリカ西海岸に近づくにしたがい横揺れが激しくなってきた。日本発の Liner (定期航路)の積荷は殆どが軽工業品の雑貨であるが、その時の長門丸は珍しく大量の大口径の鉄管を積んでいた。中が空洞の Measure 勝ちの大径管の場合、時化ると横揺れが大変なことになると、2nd Officer が教えてくれた。だが、そんな時化でも私は船酔いをすることはなかった。
San Francisco では、Mate’s roomの先輩達とタクシーに分乗して Golden Gate 公園に行った。前に来た時は真冬であったので湾内は寒々とした風景であったが、今回はやや春めいた季節であったので、Golden Gate は無骨ながらも美しい姿を見せ、あの禁酒法時代の牢獄で有名なアルカトラズ島も濃霧の中に姿を見せていた。また坂道の市内に出て Cable car に乗り、坂の上の Turning point では、他の乗客と一緒になって電車を手で押して回転させるなどして楽しんだ。
San Francisco の次の寄港地は、Los Angeles である。Los Angeles の港は、アメリカ港湾労働者の組合が強いのか、やたらと荷役の日数が掛かる。お陰で我々も多少、観光を楽しむことが出来た。入港後、外国にやや慣れ始めた私は、独りで乗り合いバスに乗って Hollywood に向かった。
Highway を走るバスから見える景色に身を乗り出していると、運転手が 「Look out」 と静かに言った。「外を見ろ!」と言っているのかと思って更に身を乗り出すと、今度は 「Look out ‼」 の怒声であった。思わず首を竦めた。船に帰って司厨長 (Chief Steward)に聞くと、「注意しろ!!」との意味と分かり自分の語彙の少なさに自己嫌悪に陥った。
当時、Highway は、未だ日本にはない交通システムである。Hollywood に着いて改めて私は、Highwayの広い道路と車のスピードにただ驚くばかりだった。そして、その Car race のような写真を撮ってやろうと側道を降りて行ったら、Highway を警邏中のバイクの警官がすっ飛んで来た。またしても田舎者になってしまった。Hollywood の街は、日本のような排他的な塀で仕切られた細切れの住宅ではなく、開放的な住宅街であった。
次の日は、Doctor、3rd Officer 等と Long Beach の遊園地に出かけた。この砂浜の上には未だ見たことなかった Jet Coaster があって乗ってみたが、その恐ろしさは並大抵のものではなかった。その時から、私は、一生涯、高所恐怖症に悩まされ続けた。前年、当地では Miss Universe が開催されたが、戦後日本からも初めて「伊藤絹子」が参加し3位に入賞したが、その八頭身の肢体が遊園地のホールに掲額されていた。
Hollywood から Los Angeles 港に帰る途中、California の野に簡易 Oil rig が林立しているのが見えた。そして、その彼方には石油が産み出したアメリカ西海岸最大の街、Los Angeles の威容が見えた。街中には日本車は殆どない。特に Highway では、日本車は車体が軽すぎて浮き上がってしまい危険であるという。日本の対外輸出は飛躍的に伸びているとはいえ、日本の重工業製品や精密機械が、アメリカに受け入れられるのは、いつの頃になるのだろうかと思った。
Los Angeles を出港した長門丸は、California湾のGuaymas という港で荷を降ろすため、California湾に入った。しばらく北上して行くと長門丸の左右の舷側にイルカが現れ、それらは、ついに数千頭と思われる大群になった。イルカの大群は、16ノットで走る本船を愚弄するように、船首、船尾を大きく回り始めた。港近くでイルカの群れを見ることは、これまでも頻繁にあったが、今回は、その海面を埋め尽くすような大群に圧倒されてしまった。
Guaymas での荷卸しは数時間ほどで終了し、次は、Nicaragua の Corinto にむかった。南下するにしたがって気温はグングンと上がり、制服も夏服着用となった。Corinto は、至る所で Siesta の最中であるが、私は村の様な街中を歩き回ってみた。Siesta 嫌いの子供たちをつかまえて、私は西語で話しかけてみた。彼らは、私の日本語訛りの西語を理解したようだったが、彼らの機関銃のような西語には閉口した。
(次回につづく)
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