本稿は恩師である芝田光男氏が私に託された「郵船時代のこと」という題名の自叙伝の一部です。どんな時も正義を重んじ、自分を信じて人生を全うされた芝田さんの足跡です。参考にして頂ければ幸いです。

 

9.横浜寿町の職安通い

神戸で長門丸を下船し家に帰ると、予想した通り、父は、私が日本郵船を退職し大学を受験することに反対だった。私の将来に対する夢と、忍耐、忍耐の連続であった父の人生観とがぶつかり、険悪な状態になってしまった。その時、兄が「自力でやると言っているのだから、やらせてやろうよ!」と言ってくれた。

 

(あん)ちゃんそうまでってくれるのか、ならやってみろだが以後泣き言は一切聞かないぞ渋々ながら賛成してくれた。

そして、私の船乗り生活心配だった母はお前仕送り貯めておいたんだよと私名義の残高10万円余の預金通帳を渡してくれた。

 

当時の高卒の初任給は、8,000円から10,000円程度だったから、10万円はとてつもなく大きな金額であった。日本郵船の初任給は、陸上勤務は10,800円、海上勤務は乗船手当を入れて約14,000円だった。衣食住の費用が殆ど掛からなかった私は、母に毎月10,000円を送金していた。母は、それには、いっさい手を付けていなかったのである。私は、涙が滲む思いで預金は、大学に合格するまで手を付けないと決めた。

 

失業保険受給のために、当時、横浜市中区寿町にあった職安(職業安定所、現在のハローワーク)に週一で通った。世の中は、朝鮮戦争の特需景気から、“なべ底景気” へと暗転していた。したがって、国内の労働事情は悪化の一途を辿っていて、寿町辺りは、職を求める労働者たちが溢れていた。

 

一方、若い私には、職安に通うたびに就労の斡旋が次々あったが、(就労せず大学を受験すると決めていたので)なにやかやと理由を付けて、それを拒否していた。だが、一か月、二か月と経ち、路上に立ち棒する労働者達を見るにつけ、私は、私の利己心に浅ましさを感じるようになり、寿町に通う事をやめてしまった。

 

(次回につづく)