10. 大学の選択と予備校通い 

航海中、私は受験するならば、入学金、授業料が安く、しかも苦手な数学を「簿記」で代替できる「一橋大学」と決めていた。だが、下船後、取り寄せた一橋大学の募集要項には、従来の英語、国語、社会、数学の4科目の受験科目が、昭和35年度からは、英語、国語、社会、数学、理科の6科目に変更されていた。

私にとって、その変更はまさに驚天動地(きょうてんどうち)のことであった。どう考えても6か月余りの準備では間に合う筈がない。結局、在学中の経済的な負担の心配はあったが、私は受験を早稲田大学一本に絞ることに決めた。中学時代に読んだ「尾崎士郎の人生劇場」から、「早稲田には個性的な学生が多い」との印象を抱いていたからである。

 

お世話になった郵船の方々への挨拶も済んだ5月の末、私は受験勉強を開始した。国語、歴史は後回しでもよいと、タカをくくり中学、高校時代の英語の教科書を読み返す事から始め、ひと月後、私は腕試しに横浜中区日出町の「山手英学院」で大学入試の模擬試験を受けてみたが、その結果は惨憺たるもので、英語、国語、社会のいずれの科目も30点台であった。

朱筆の入った答案用紙を点検したところ、私は出題文章に馴れていないため、出題内容を理解していないのだと気づいた。それから、せっせと模擬試験の場数を踏むことにした。それでも成績は芳しいものではなく、私は勉強の仕方が根本的に間違っているのでは?と反省し、ふと、ある本に「田舎の猛勉強よりも都会の昼寝」という言葉があったことを思い出した。それは、「情報の少ない田舎で刻苦(こっく)勉励(べんれい)するよりも、色々な情報が自然と耳に入ってくる東京の方が有利」という寓話だが、当時の私としては、受験にノウハウのようなものがあるとすれば、それを一刻も早く吸収したいと思った。一か月後、私は受験生の多く集まる東京の予備校に通うこと決め、所要時間1時間余りの「正修英語学校(お茶の水)」に通うことにした。

やはり、同予備校の受験生たちは、山手英学院のそれとは大違いで、受講者たちは、始業時間前から講師の声が良く聞こえる席を取ろうと教室前に列を作り、授業には(まばた)きをはばかるように講師の話に聞き耳を立てていた。それぞれの講義は、専任講師のレジメに沿って行われるが、内容は受験に必要不可欠なものばかりであり、講師は「100点を取ろうと思わず70点以上を取れ」と、受験の戦術を教えてくれた。

私は、その含蓄ある言葉から、数枚のレジメを基に自分だけが解る「暗記帳」を作って、所かまわず持ち歩き暗誦を繰り返すようにした。その甲斐あってか、私の各種の模擬試験の成績はジワジワと上がって行った。

三か月余りが経つと、私に2浪の友人ができた。幼い頃から私は、競争相手が出来ると燃え上がる性格である。模擬試験上位の常連である彼は、どういうわけか私を好いてくれたらしく、いつも私の席を取って待っていてくれた。そして、四か月が経った頃、雑談の中で彼は、「今は目指す受験大学の出題傾向から試験問題を想定し、立てた対策に沿って勉強している。」と語ってくれた。彼に追従しきるのは危険であるが、彼は普通科高校出身で受験経験も充分である。結局、このまま無手勝流を押し通すよりは、彼の勉強方法をマネようと、私は早稲田大学各学部の過去5年間の試験問題集を取り寄せ、その活字や文体に慣れ親しみながら、弱点分野の補強を繰り返した。

だが、夏が終わって涼しい秋の訪れとともに、私は絶えず不安と焦りに襲われるようになった。だが、そのたびに私は、「泣き言は一切聞かないぞ!」と言った父の言葉を思い出し、寝る間を惜しんで勉強に打ち込んだ。通学電車の中では、眠りこけないように一心不乱に「暗記帳」や「赤尾の豆単」の読誦を繰り返した。ボサボサ頭で暗記に没頭する私の姿は、女学生やお婆ちゃんたちのクスクス笑を誘っていた。また、ある時、私の表情がよほど深刻だったのか、たまたま京急に乗り合わせた横浜高校の黒土校長から「困った事があるならいつでも相談に乗りますよ。」と名刺を渡されたこともあった。こうした私の1日の睡眠時間は、凡そ3~4時間程度だったと思うが、ラグビーで鍛えた体は、その難行によく耐え続けてくれた。

そして、その結果は、クリスマスツリーが飾られ始める11月下旬に行われた受験生約2,000人規模の模擬試験で、ベストテンの成績となって現れた。さらに続いた12月中旬の試験でも同様の成績であったため、私は自分の力が飛躍的に上昇している事を自覚し、やる気が一層高まって行った。

受験本番まで後2か月と迫った年の瀬の或る日、それまで寝たきりだった祖父が突然起き上がり、ヨタヨタしながら私の机の傍らに歩み寄って来て、ロレツの回らない声で「頑張れ!」と言ったまま倒れてしまった。それから1週間後、あの一本気で頑固者だった祖父は眠るように、あの世に逝ってしまった。寝たきりだったが、祖父は、きっと、私が浪人中という境遇をしっかりわかっていて、最後の力を振り絞って、私に別れを告げてくれたのであろうと思う。享年86歳であった。

私は、幼少の頃から私に期待を抱いてくれていた祖父の死を奮発材料にしようと、葬儀中にも関わらず祭壇の明かりを頼りに追い込みに精を出した。葬儀に訪れた疎開時代に世話になった高崎の叔母たちは、私のなりふり構わぬ姿を呆れた顔で眺めながら、高崎弁で「頑張りなよねー」と言ってくれた。

以上のように曲折は色々あったが、2月末の本試験で、なんとか私は早稲田大学の商学部と法学部に合格することができた。私は、大学構内の掲示板に自分の受験番号を見つけた時、私は悲しい結末に至らなかったという安堵感と、更に、これで毒にも薬にもならない受験勉強からやっと解放され、これから4年間は、好きなことに没頭出来るのだ!と改めて思った。

家族も今までの重苦しい空気から解き放たれたのだと思う。それまで小中学校の父兄会ですら出ることを嫌がっていた母や、会社を休んだことがない父までもが、入学式には出席すると言い出した。

 

(次回につづく)